文化勲章受章者の川田順造先生が2024年12月20日、90歳の天寿を全うされました。西アフリカの旧モシ王国における非文字コミュニケーション(無文字社会)の研究で業績を重ね、日・仏・アフリカにおける「文化の三角測量」という手法を提唱し、『悲しき熱帯』(C. レヴィ=ストロース)の翻訳でも知られた文化人類学者です(本コラム第14話参照) 。達意の文筆家でもあり、『曠野から―アフリカで考える』(1973)では日本エッセイスト・クラブ賞を授与されています。
川田先生はわたしの学部時代の恩師でもあります。埼玉大学教養学部に文化人類学を中心とする総合文化課程ができたとき、石田英一郎教授のもとで実質的なマネジメントにあたったのが川田助教授でした。川田先生の人脈で講師陣には山口昌男、西江雅之、青柳真智子、坪井洋文、田島節夫、徳永康元、大野盛雄、尾本恵市らの先生が名を連ね、特別講師としては泉靖一、中根千枝、祖父江孝男、青木保、中林伸浩先生などが来られました。時に講師を囲んでひらく「総合鍋」と称するあやしい飲み会が大のお気に入りでした。気さくなところは東京下町育ちだったからでしょうか、学生とも分け隔てなく付合ってくれました。
川田先生の授業でわたしは初めてレヴィ=ストロースというフランスの高名な民族学者の存在を知りました。パンセ・ソヴァージュが「野性の思考」を意味すると同時に、「パンジー=三色スミレ」のことでもあり、「野生の思考は美しい」という洒落の効いたタイトルであることを学びました。もちろんマリノフスキーやラドクリフ=ブラウンなど社会人類学の先達のことも、ボアズやベネディクトなどアメリカの文化人類学についても一通り教えてもらいましたが、特に印象に残っているのは梅棹忠夫の「文明の生態史観」でした。そして講義の最後に「質問があれば、知り合いでもある梅棹忠夫氏に問い合わせることもできる」といった趣旨のことを述べられました。
川田先生は梅棹先生についての一文を『梅棹忠夫著作集』の「月報」5(1990)に寄せています。そのなかで、梅棹先生は知的生産技術論や情報管理論、研究経営論を書かれたが、次は人間関係のつくり方を中心とする研究経営者論を是非書いてほしいと要望しています。埼玉大学での新課程創設の苦労が脳裏をよぎったのかも知れません。残念ながら研究経営者論は実現することなく、ふたりとも同年齢で、14年の時を隔てて、この世を去ってしまいました。
川田先生は『悲しき熱帯』の舞台となったブラジルへもいちど足を運びました。1984年夏のことです。ちょうどわたしもサンパウロに長期滞在中で、何度かお会いする機会に恵まれました。2ヵ月ほどの短期旅行でしたが、「裸族」ナンビクワラなどレヴィ=ストロースの足跡をたどったり、「紐の文学」とよばれる民間の口頭伝承に触手をのばしたりと、精力的に各地を訪ね、『ブラジルの記憶―「悲しき熱帯」は今』(NTT出版、1996)をまとめました。この本には「私にとってのブラジル―12年ののちに」という章が含まれ、これもまた基本的に伯・仏・アフリカという三角測量の成果とみなすことができます。
このように川田先生との思い出は尽きません。先生のご冥福をお祈りするばかりです。(2025年2月11日)