理事長徒然草(第6話)
「篠遠喜彦夫妻の思い出―『季刊民族学』169号の特集に寄せて」

『季刊民族学』169号(2019年7月)の特集「オセアニア考古学の挑戦」が無事刊行されました。その副題に「篠遠喜彦の足跡から」とあるように、これは追悼号でもあります。篠遠先生はオセアニア考古学のパイオニアの一人でもあり、泰斗と称しても過言ではない研究者でした。その偉大な学術的足跡は特集にあますところなく書かれていますし、民博のオセアニア展示への貢献についても十分に述べられています。また、民博の梅棹忠夫初代館長との対談も『月刊みんぱく』(1979年3月号)に「太平洋の研究センター」として掲載され、梅棹忠夫編『博物館の世界―館長対談』(中公新書、1980年)にも再録されています。

オセアニア研究者でも考古学者でもないわたしが篠遠先生と接点をもったのは日本人移民の研究でした。1977年、東大宗教学研究室を中心とするハワイの日系宗教の科研調査に従事していたとき、ビショップ博物館に設立されていたハワイ移民資料保存館のことを知り、何人かで訪問したことがあります。日時は7月14日(木)の午前中でした。当時、篠遠先生はビショップ博物館の考古研究部の部長でしたが、和子夫人が移民資料保存館の管理にあたっていました。われわれはまず奥様とお目にかかり、博物館の常設展示を案内していただき、途中から篠遠先生もくわわり、懇切な説明をうけました。カプ(タブー)や呪術のこと、樹皮布のタパやそれを使ったカプ・スティックのこと、また羽毛の所持は王族のみが許されることなど当時のメモには記されていますが、そのときの記憶では「マルケサス」が呪文のように聞こえていました。ハワイアンはマルケサス諸島から移住したのだという考古学的発見について先生が熱心に語っておられたからです。今回の特集ではそのことをより深く学ぶことができました。ちなみに、日本人移民の資料のことを奥様からうかがったのは移民資料保存館においてでしたが、本館展示を見た後だったような気がします。

その2年後にも日系宗教の現地調査をしましたが、篠遠夫妻にはお目にかかっていません。その後、1981年にもカリフォルニア調査を科研費で継続しましたが、ハワイには立ち寄りませんでした。わたし自身も1983年以降、ブラジルの日系宗教調査に重点を移したため、ハワイを含むアメリカとは疎遠になりました。ところが、1999年夏、梅棹先生がJICA本部から海外移住の資料館建設の相談を受け、その実現にむけてわたしに白羽の矢を立てたのです。それから2002年10月のJICA横浜海外移住資料館の開館まで、わたしは日本人の海外移住先を何度も訪ねることになるのですが、ハワイにうかがったときはいつも篠遠夫妻のお世話になりました。そして和子夫人には海外日系人社会の博物館関係者を招聘した2000年6月の有識者会議で助言をもとめ、その一端は海外移住資料館の展示案内『われら新世界に参加す』にメッセージとして掲載されています。2002年12月の開所式のときにもお越しいただきました。

篠遠和子氏(向かって右)と城田愛研究員(当時)とハワイ展示の前で。

また奥様とF.王堂との共著『図説ハワイ日本人史―1885-1924』(ビショップ博物館人類学部ハワイ移民資料保存館、1985)は展示構想を練る際にいちばん頼りにした文献でした。その書物の刊行と、ハワイ移民資料保存館の創設に際しては日本万国博覧会記念協会補助金(万博基金)が役立てられていたことも特記していいかもしれません。

他方、篠遠先生にはJICA訪問団に対しバスやガイドの件で有益な助言をいただいただけでなく、実際の手配までしてくださったことが忘れられません。考古学の発掘作業での実務経験がこんなところにまで生きていたのだとおもいます。また、篠遠先生から託されて民博オセアニア展示場の「葬儀長の衣装」(復元)に関する写真と資料を印東道子先生に届けたことも思い出されます。わたしはたんなる運び屋にすぎなかったのですが、実はこの資料、キャプテン・クックがタヒチの首長から贈呈され大英博物館やビショップ博物館などに所蔵されているものをタヒチのアーティストが復元したものなのです。今回の特集には言及がないので、ひと言、補足しておきたいとおもいます。

【終了】[公開座談会]自然界から想像/創造する~Creature Creators’ Symposium

連続講座「みんぱく×ナレッジキャピタル 想像界の奥へ」第1回
公開座談会
「自然界から想像/創造する~Creature Creators’ Symposium」

日時
2019年9月23日(月・祝)
13:30~16:30(受付開始13:00)

場所
ナレッジシアター
(グランフロント大阪北館4階)

参加費
無料

定員
360名(要事前申込・先着順)

登壇者
五十嵐大介(漫画家)
長谷川朋広(ゲームクリエイター)
西田清徳(海遊館館長)

司会
山中由里子(国立民族学博物館教授)

主催
国立民族学博物館
一般社団法人ナレッジキャピタル
株式会社KMO

 

 

中牧理事長、英国王立人類学協会から名誉フェローを授与

当財団の中牧弘允理事長に、人類学の発展に広く貢献してきた世界最古の学会、英国王立人類学協会(RAI)より名誉フェローの 称号が授与されました。
この栄えある名誉フェローの授与は、日本では中根千枝先生に続いて2人目です!

理事長徒然草(第5話)
「カクレキリシタンを訪ねる旅に参加して」

新元号「令和」が決定して約半月が経ちました。元号は明治以来、一世一元にあらたまり、践祚(せんそ)にともなう代始改元のみとなりました。これはほんの一例ですが、明治からすべてが一新されたかようなイメージをわれわれはとかくもちがちです。しかし、去る2月の国立民族学博物館友の会、第80回体験セミナー「長崎県、潜伏キリシタンの足跡を訪ねる」に個人参加して以来、維新とは言っても江戸時代をかなり引きずっていたことが多々あることに気づかされるようになりました。

キリシタン禁制もそのひとつです。大政奉還、王政復古となってもキリシタン禁制は解かれませんでした。吹田市立博物館が所蔵する高札を見ると慶応4年3月に奉行に代わって太政官がおなじ文面のお触れをだしています(写真)。淀藩主も淀藩知事に名称が変わっただけです。キリシタン禁制が解けるのは、禁教令が撤廃された1873年からです。

その1873年は改暦が断行された年でもあります。中国から導入し、江戸時代に京都を基準に改変をくわえた太陰太陽暦(一般には太陰暦ないし旧暦と言われる暦法)を廃止し、西洋の太陽暦(グレゴリオ暦)を採用しました。グレゴリオ暦はキリスト生誕紀元の紀年法をもちいていますから、もはやキリスト教を禁じることはできなくなったと言えます。グレゴリオ暦への改暦とキリシタン禁教令の撤廃は表裏一体をなすものであったかとおもわれます。

さて、3泊4日の体験セミナーは同行講師の宮崎賢太郎氏(長崎純心大学名誉教授)による懇切な解説で充実した内容となりました。現場での説明はもとより、ホテルでのレクチャーも2回にわたり、たっぷり時間をとったものでした。とくに強調されたのは、①禁教令が解かれるまでの「潜伏キリシタン」と解除後の「カクレキリシタン」の区別、ならびに②カクレキリシタンは隠れてもいなければ、教義をわきまえたキリスト教徒でもないこと、むしろ③キリシタン的要素はあるものの、先祖を大切にし、ケガレやタタリをおそれる日本の民衆信仰そのものであること、などでした。

実際、2カ所でオラショ(祈祷)を唱えてもらいましたが、これは講師の同行なくしては実現できなかったことです。また、家の祭壇のならびも御前様(カクレ独特の崇拝対象)を中心に左右に仏壇と神棚を配するものでした。宮崎氏によれば、それは「仏教と神道とキリシタンの三位一体」の神を等しく拝むことの実証でもありました。ただ、私流に言わせてもらえれば、従来「重層信仰」と称されてきたシンクレティズムは、この場合、「並列信仰」という形容のほうがふさわしいと感じました。三つの神を同時に拝むときはどうするのかという参加者の質問に対し、少し後ろにさがって(三つの祭壇を視野に収めて)拝すると答えられたのには感心しました。
潜伏キリシタンに関してはこれまで「仏教や神道を装い,秘かにキリスト教の信仰を守り通した」という「夢とロマンの殉教史観」が流布してきたと宮崎氏は主張し、カトリック教会や学界の通念に異を唱えています。参加者の皆さんもその主張にじっくり耳を傾け、講義終了後も議論が続いたことはうれしいかぎりでした。

今回は生月島、平戸島、それに五島をめぐりましたが、盛りだくさんでわたし自身、まだ消化しきれていません。個人的には、離れ小島の野崎島で丘の中腹にある旧野首教会まで歩いて到達できなかったとき、軽トラで送迎してもらったことが感謝とともに印象にのこっています(写真)。良い「冥土の土産」(わたしの口癖)ができました。

体験セミナーに参加された方がたもそれぞれに有意義な旅であったことをねがっています。また、講師の宮崎氏にはとりわけ世話になりました。いたらない先輩の顔を立て、ときには杖となってくださり、誠にありがとうございました。

y体験セミナーの様子

理事長徒然草(第4話)
「博覧会の遺産、あなどるべからず」

 6月18日の大阪府北部地震の余波で7月の友の会講演会は中止せざるをえなくなりました。というのも民博の被害が阪神・淡路大震災以上に甚大で、エントランスホールの通行もセミナー室の利用もできなくなってしまったからです。民博の閉館は8月23日に部分的に解除されることになっていましたが、そのままいくと8月の友の会講演会も開催できないことになりかねませんでした。そこで会場と講師、日程を変更してまでも実施できないかと画策した結果、まず万博公園内のニフレルのご厚意で会場をお借りすることができました。講師についてはいろいろやりくりしてみましたが、民博の現役はフィールドワークのかせぎ時とあって、誰も都合がつきませんでした。ならば名誉教授シリーズということで、わたしがその役目を果たすことになったという次第です。

1年ほど前、わたしは「民族学で解く千里ニュータウンと大阪万博」(第469回)という題で講演を担当しました。それにつづき千里の地元にまつわるテーマで第2弾をとかんがえたところ、箕面駅前にあったコーヒー喫茶のチェーン店、カフエーパウリスタのことがおもいうかびました。いまをときめくスターバックスの先駆けがカフエーパウリスタであり、その1号店が箕面にできたことはあまり知られていません。地元ネタとして関心をもってもらえるのではないかと期待し、「日本人のブラジル移住とコーヒー文化の逆流―カフエーパウリスタ箕面喫店を中心に」という題に決めました。その要約は『友の会ニュース』(No.248)にゆずりますが、要点は以下のとおりです。

  1. ブラジル移住は1908年の笠戸丸が最初ですが、日本人はサンパウロ州のコーヒー農園の労働者としてコーヒー豆の生産に従事した。
  2. 他方、サンパウロ州政府はコーヒー豆を無償提供し、日本にコーヒー文化を根付かせようとした。
  3. その仲立ちの役割をはたしたのが「移民の父」と称せられる水野龍(りょう)であった。かれは最近、「珈琲普及の母」ともよばれている。
  4. 水野は1911年、合資会社カフエーパウリスタを設立し、銀座を本店としたが、それより半年はやく、1911年6月、箕面駅前に1号店がオープンした。
  5. コロニアル風の洋館にテナントとしてはいったカフエーパウリスタは山林こども博覧会の開会式にコーヒーを提供している。
  6. 洋館の建物はその後、豊中市に移築され、キリスト教会の集会所となったりしたが、長期間にわたり豊中倶楽部自治会館が近年まで使用してきた。
  7. 2013年10月1日、豊中倶楽部自治会館の建物の解体がはじまったが、一部の部材は同自治会館や豊中市文化財保護課が保存することとなった。
  8. 2013年の北大阪ミュージアムメッセ@民博特展場地下において模型、映像、パネル等で紹介された。
  9. その後、大阪歴史博物館、高知県立図書館、高知県佐川町、箕面市立郷土資料館、JICA横浜海外移住資料館などでも展示された。
  10. カフエーパウリスタ甲陽園店の建物も2016年に解体されたが、一部の部材は神戸市立海外移住と文化の交流センターの移住ミュージアムに移管され、一般公開された。

この講演のなかでひとつのひらめきを得ました。それは観覧車にかかわることです。というのも、ニフレルのとなりには大観覧車がまわり、エキスポシティの集客に一役買っています。他方、カフエーパウリスタ箕面喫店の写真にも山中に観覧車が写っています。これは山林こども博覧会のアトラクションとして建てられました。場所は今の箕面スパガーデンのところです。当時は動物園も併設されていました。それはのちに宝塚に移転され、宝塚ファミリーランドの動物園として2003年まで開園していました。

 観覧車と博覧会は切っても切れない縁があるようです。1970年の大阪万博の時もエキスポランドには観覧車がありました。その大阪万博のあたえた影響のひとつに日本人が世界の飲食文化にふれたことがあげられます。アメリカのファスト・フード、インドのカレー、ロシアのピロシキ、ブルガリアのヨーグルトなどがその代表例です。あたらしい文化の導入に博覧会はおおきな役割りを果たしています。そして博覧会の跡地もまた、さまざまなかたちで博覧会の遺産をひきついでいます。万博公園、太陽の塔、民博もその仲間にはいります。

 博覧会は期間限定のお祭りですが、その施設は解体あるいは移設され、その跡地もまた公園や展示施設、あるいは商業施設などに再利用されています。かならずしも雲散霧消するわけではありません。日本におけるコーヒー文化の大衆化が箕面の博覧会でまずのろしが上がり、銀座や道頓堀などの盛り場にひきつがれていったことも、ひとつの興味ぶかい事例を提供しているようにおもわれました。「博覧会の遺産、あなどるべからず」です。お祭りの後始末ではありますが。

【参考文献】
拙著「旧カフエーパウリスタ箕面店が提起する問題」『JICA横浜海外移住資料館研究紀要』第8号、国際協力機構横浜国際センター海外移住資料館、2014年、37-47頁。


【北大阪ミュージアムメッセの展示(2013年)<筆者撮影>】