当財団の中牧弘允理事長に、人類学の発展に広く貢献してきた世界最古の学会、英国王立人類学協会(RAI)より名誉フェローの 称号が授与されました。
この栄えある名誉フェローの授与は、日本では中根千枝先生に続いて2人目です!
理事長徒然草(第5話)
「カクレキリシタンを訪ねる旅に参加して」
新元号「令和」が決定して約半月が経ちました。元号は明治以来、一世一元にあらたまり、践祚(せんそ)にともなう代始改元のみとなりました。これはほんの一例ですが、明治からすべてが一新されたかようなイメージをわれわれはとかくもちがちです。しかし、去る2月の国立民族学博物館友の会、第80回体験セミナー「長崎県、潜伏キリシタンの足跡を訪ねる」に個人参加して以来、維新とは言っても江戸時代をかなり引きずっていたことが多々あることに気づかされるようになりました。
キリシタン禁制もそのひとつです。大政奉還、王政復古となってもキリシタン禁制は解かれませんでした。吹田市立博物館が所蔵する高札を見ると慶応4年3月に奉行に代わって太政官がおなじ文面のお触れをだしています(写真)。淀藩主も淀藩知事に名称が変わっただけです。キリシタン禁制が解けるのは、禁教令が撤廃された1873年からです。
その1873年は改暦が断行された年でもあります。中国から導入し、江戸時代に京都を基準に改変をくわえた太陰太陽暦(一般には太陰暦ないし旧暦と言われる暦法)を廃止し、西洋の太陽暦(グレゴリオ暦)を採用しました。グレゴリオ暦はキリスト生誕紀元の紀年法をもちいていますから、もはやキリスト教を禁じることはできなくなったと言えます。グレゴリオ暦への改暦とキリシタン禁教令の撤廃は表裏一体をなすものであったかとおもわれます。
さて、3泊4日の体験セミナーは同行講師の宮崎賢太郎氏(長崎純心大学名誉教授)による懇切な解説で充実した内容となりました。現場での説明はもとより、ホテルでのレクチャーも2回にわたり、たっぷり時間をとったものでした。とくに強調されたのは、①禁教令が解かれるまでの「潜伏キリシタン」と解除後の「カクレキリシタン」の区別、ならびに②カクレキリシタンは隠れてもいなければ、教義をわきまえたキリスト教徒でもないこと、むしろ③キリシタン的要素はあるものの、先祖を大切にし、ケガレやタタリをおそれる日本の民衆信仰そのものであること、などでした。
実際、2カ所でオラショ(祈祷)を唱えてもらいましたが、これは講師の同行なくしては実現できなかったことです。また、家の祭壇のならびも御前様(カクレ独特の崇拝対象)を中心に左右に仏壇と神棚を配するものでした。宮崎氏によれば、それは「仏教と神道とキリシタンの三位一体」の神を等しく拝むことの実証でもありました。ただ、私流に言わせてもらえれば、従来「重層信仰」と称されてきたシンクレティズムは、この場合、「並列信仰」という形容のほうがふさわしいと感じました。三つの神を同時に拝むときはどうするのかという参加者の質問に対し、少し後ろにさがって(三つの祭壇を視野に収めて)拝すると答えられたのには感心しました。
潜伏キリシタンに関してはこれまで「仏教や神道を装い,秘かにキリスト教の信仰を守り通した」という「夢とロマンの殉教史観」が流布してきたと宮崎氏は主張し、カトリック教会や学界の通念に異を唱えています。参加者の皆さんもその主張にじっくり耳を傾け、講義終了後も議論が続いたことはうれしいかぎりでした。
今回は生月島、平戸島、それに五島をめぐりましたが、盛りだくさんでわたし自身、まだ消化しきれていません。個人的には、離れ小島の野崎島で丘の中腹にある旧野首教会まで歩いて到達できなかったとき、軽トラで送迎してもらったことが感謝とともに印象にのこっています(写真)。良い「冥土の土産」(わたしの口癖)ができました。
体験セミナーに参加された方がたもそれぞれに有意義な旅であったことをねがっています。また、講師の宮崎氏にはとりわけ世話になりました。いたらない先輩の顔を立て、ときには杖となってくださり、誠にありがとうございました。
理事長徒然草(第4話)
「博覧会の遺産、あなどるべからず」
6月18日の大阪府北部地震の余波で7月の友の会講演会は中止せざるをえなくなりました。というのも民博の被害が阪神・淡路大震災以上に甚大で、エントランスホールの通行もセミナー室の利用もできなくなってしまったからです。民博の閉館は8月23日に部分的に解除されることになっていましたが、そのままいくと8月の友の会講演会も開催できないことになりかねませんでした。そこで会場と講師、日程を変更してまでも実施できないかと画策した結果、まず万博公園内のニフレルのご厚意で会場をお借りすることができました。講師についてはいろいろやりくりしてみましたが、民博の現役はフィールドワークのかせぎ時とあって、誰も都合がつきませんでした。ならば名誉教授シリーズということで、わたしがその役目を果たすことになったという次第です。
1年ほど前、わたしは「民族学で解く千里ニュータウンと大阪万博」(第469回)という題で講演を担当しました。それにつづき千里の地元にまつわるテーマで第2弾をとかんがえたところ、箕面駅前にあったコーヒー喫茶のチェーン店、カフエーパウリスタのことがおもいうかびました。いまをときめくスターバックスの先駆けがカフエーパウリスタであり、その1号店が箕面にできたことはあまり知られていません。地元ネタとして関心をもってもらえるのではないかと期待し、「日本人のブラジル移住とコーヒー文化の逆流―カフエーパウリスタ箕面喫店を中心に」という題に決めました。その要約は『友の会ニュース』(No.248)にゆずりますが、要点は以下のとおりです。
- ブラジル移住は1908年の笠戸丸が最初ですが、日本人はサンパウロ州のコーヒー農園の労働者としてコーヒー豆の生産に従事した。
- 他方、サンパウロ州政府はコーヒー豆を無償提供し、日本にコーヒー文化を根付かせようとした。
- その仲立ちの役割をはたしたのが「移民の父」と称せられる水野龍(りょう)であった。かれは最近、「珈琲普及の母」ともよばれている。
- 水野は1911年、合資会社カフエーパウリスタを設立し、銀座を本店としたが、それより半年はやく、1911年6月、箕面駅前に1号店がオープンした。
- コロニアル風の洋館にテナントとしてはいったカフエーパウリスタは山林こども博覧会の開会式にコーヒーを提供している。
- 洋館の建物はその後、豊中市に移築され、キリスト教会の集会所となったりしたが、長期間にわたり豊中倶楽部自治会館が近年まで使用してきた。
- 2013年10月1日、豊中倶楽部自治会館の建物の解体がはじまったが、一部の部材は同自治会館や豊中市文化財保護課が保存することとなった。
- 2013年の北大阪ミュージアムメッセ@民博特展場地下において模型、映像、パネル等で紹介された。
- その後、大阪歴史博物館、高知県立図書館、高知県佐川町、箕面市立郷土資料館、JICA横浜海外移住資料館などでも展示された。
- カフエーパウリスタ甲陽園店の建物も2016年に解体されたが、一部の部材は神戸市立海外移住と文化の交流センターの移住ミュージアムに移管され、一般公開された。
この講演のなかでひとつのひらめきを得ました。それは観覧車にかかわることです。というのも、ニフレルのとなりには大観覧車がまわり、エキスポシティの集客に一役買っています。他方、カフエーパウリスタ箕面喫店の写真にも山中に観覧車が写っています。これは山林こども博覧会のアトラクションとして建てられました。場所は今の箕面スパガーデンのところです。当時は動物園も併設されていました。それはのちに宝塚に移転され、宝塚ファミリーランドの動物園として2003年まで開園していました。
観覧車と博覧会は切っても切れない縁があるようです。1970年の大阪万博の時もエキスポランドには観覧車がありました。その大阪万博のあたえた影響のひとつに日本人が世界の飲食文化にふれたことがあげられます。アメリカのファスト・フード、インドのカレー、ロシアのピロシキ、ブルガリアのヨーグルトなどがその代表例です。あたらしい文化の導入に博覧会はおおきな役割りを果たしています。そして博覧会の跡地もまた、さまざまなかたちで博覧会の遺産をひきついでいます。万博公園、太陽の塔、民博もその仲間にはいります。
博覧会は期間限定のお祭りですが、その施設は解体あるいは移設され、その跡地もまた公園や展示施設、あるいは商業施設などに再利用されています。かならずしも雲散霧消するわけではありません。日本におけるコーヒー文化の大衆化が箕面の博覧会でまずのろしが上がり、銀座や道頓堀などの盛り場にひきつがれていったことも、ひとつの興味ぶかい事例を提供しているようにおもわれました。「博覧会の遺産、あなどるべからず」です。お祭りの後始末ではありますが。
【参考文献】
拙著「旧カフエーパウリスタ箕面店が提起する問題」『JICA横浜海外移住資料館研究紀要』第8号、国際協力機構横浜国際センター海外移住資料館、2014年、37-47頁。
【北大阪ミュージアムメッセの展示(2013年)<筆者撮影>】
理事長徒然草(第3話)
「大阪北部地震の対応について」
大阪北部地震から10日がすぎました。国立民族学博物館は展示場や収蔵庫をはじめ、阪神淡路大震災のときに匹敵するさまざまな被害をこうむりました。震源地にちかいことや揺れの方向もあってか、それをうわまわる被害も生じています。そのひとつが3階の書庫や4階の研究室における本の落下です。図書室の所蔵する67万冊の書籍のうち、約3分の1が落下・散乱したまま積み重なってしまい、その排架作業には2ヶ月程度かかると想定されています。大阪北部地域の博物館、美術館のなかで、民博がその巨大さに対応するかのように、群を抜いて被害をこうむっていることはたしかです。
民博内に事務所やショップをもつ当財団もいろいろな影響を受けていますが、職員一同、鋭意復旧につとめております。とはいえ、民博の展示場がしばらく閉鎖されているため、インフォメーションやショップのサービスが提供できなくなっています。しかし、そのかわりに、落下した図書の整理に人員を振り向けたり、収蔵庫の資料整理に人数を割いたりしています。また、ショップではネット通販に力を入れたり、仮設の売り場を模索したりしているところです。他方、『季刊民族学』や『月刊みんぱく』の編集・出版のほうはおかげさまで間髪を置かず通常どおりの業務にもどっています。
とはいえ、残念ながら中止を余儀なくされた会合や講演会もあります。恒例の「友の会講演会」も残念ながら7月7日(土)の分は実施できなくなりました。楽しみにされていた会員の皆さまにはたいへん申し訳なくおもっております。
予期せぬ自然災害とはいえ、みんぱく友の会の活動やサービスに支障をきたしていることをお詫びするとともに、「禍(災い)転じて福となす」のことわざのように、福=幸(さいわい)にむけて努力を惜しまない覚悟ですので、ひきつづき御支援・御協力のほどをおねがいする次第です。
理事長徒然草(第2話)
「中国の第7回国際工商人類学大会に参加して」
2018年4月25日(金)~27日(土)にかけて寧夏回族自治区の銀川で開催された第7回国際工商人類学大会(The 7th International Conference on Business Anthropology 2018)に「国際著名学者」として招聘され、基調講演をおこないました。銀川は「一帯一路」政策の拠点都市のひとつであり、空港をはじめ、あちこちに建設ラッシュの槌音が聞こえ、開発の最前線であることが実感させられました(写真1)。近郊には西夏王国の王陵があり、賀蘭山岩画の遺跡もあって、映画のロケ地セットともども、観光名所となっています。
大会は寧夏大学を会場にひらかれました(写真2)。しかし、実質的な推進者は田广教授(汕頭大学)であり、かれは中国のビジネス人類学の立役者の1人でもあります。『工商人類学』(寧夏人民出版社、2012)という周大鳴との共著があり、今回も周涛、馬建福と共著で出版したばかりの『管理与工商人類学』(寧夏人民出版社、2018)の寄贈を受けました。その共著者の一人、北方民族大学の馬建福教授が大会では田教授の右腕となっていました。また民博にもシンポジウムで招聘したことがある旧知の張剛教授(雲南財経大学)も主要な役割を果たしていました(夜の飲み会を含め)。
日本からはわたしのほかに八木規子准教授(聖学院大学)、マリー・レイゼル講師(立教大学)、朱藝助教(筑波大学)が参加しました。登録日の25日には一緒に王墓や岩画の見学に赴き、親交を深めました。
わたしは26日の基調講演では5名の演者の4番目に登壇し、30分ほど民博の共同研究を基盤とした「経営人類学」について、25年にわたる「創世記」を語りました(写真3)。研究成果の実物も何冊か持参して紹介しました(写真4~6)。その講演では日本の経営人類学の特徴として、①経営学と人類学の共同作業を基本としていて、人類学の一分野をめざしているわけではないこと、②会社を利益集団としてよりも「民族」に類比できる生活共同体、文化共同体の側面から把握しようとしていること、③これまで企業博物館、会社神社、社葬、会社神話などをテーマとしてとりあげてきたことなどを話しました。また外部者による評価にもふれ、長年にわたる研究成果が20冊を越える単行本や報告書として結実していることにも言及しました。そして「学派」として認められるためには50冊が必要だと東方出版の社長から言われたことを引き合いに、「道半ばである」と結びました。
大会とは別に、外国からの基調講演者は1キロほど離れたところにある北方民族大学で、事前の打診もなく、順番に講義を依頼されました。わたしも27日の午後3時から5時半まで英語(逐次通訳付)の講義をしました。さいわい2012年に北京大学でおこなった講義のパワーポイントがあり、中国語の画面をたよりに遂行できました。さらに大会の基調講演も学生に分かりやすい解説をつけて再現しました。学生たちは日本の経営人類学に感銘を受けた様子でしたが、最後にでた「歳をとっているのになぜ研究を続けているのか」との質問には虚を突かれました。咄嗟に、「70にして心の欲するところにしたがってのりをこえず」という孔子の教えを引用し、「自分のしたいことをしているのだ。道を踏み外さないようにしながら」と返答しました。しかし、質問には「何が悲しくて・・・」といったニュアンスも読み取れました。というのも、田教授は大会のとあるセッションで、工商人類学ないし「ビジネスと人類学」をやればリッチで高名になると力説していたからです。学生には日本の老学者はリッチには見えなかったのかもしれません。
その晩の会食には民博に外国人研究員として長期滞在していた馬茜さん(寧夏行政学院准教授)も駆けつけてくれ、旧交を温めました(写真7)。
プログラムが出国前日に届いたり、人によっては届かなかったりで、先行きが危ぶまれましたが、これがトヨタ方式ならぬ中国方式のジャスト・イン・タイムだと、いささか皮肉を込めたコメントを添えて、大会での任務が無事終わったことを報告いたします。(2018年5月30日記)